城戸邸は、森閑とした山の麓に聳え立っていた





       は、車を降りた後、応接室と思しき大きな部屋へ通された

       吹き抜けほどの高さのある天井には幾つものシャンデリアが燦然と煌き、
       大きな窓はビロードのカーテンで重々しく縁取られていた


       「う――ん、流石は財団総帥の応接室。」


       誰も居ない部屋のソファに腰掛け、は一人で呟いた

       …おそらく自分には、こんな暮らしは一生縁が無いだろう
       別段、その事実が悲しいとか寂しいなどとは思わなかった
       …世の中は広いのだ
       それだけを良く知っておけば、それで充分だ




       が納得し掛かったところで、部屋の扉が開いた
       先程の大きな男…アイオリアに付き添われて部屋に入って来たのは、菫色の髪の少女だった
       少女とは言え、外見はすっかり成熟していた
       …そして、その成熟した雰囲気は、彼女の外面だけではなく、内面からも発されているようだ
       …それが何に基づくのか、それは定かではない
       只、は彼女を一目見たときにそう直感した

       時には、思考や思索よりも感覚の方が正鵠を射ていることもあると言う事を、は知っていた


       「さん、よくおいで下さいました。私が城戸沙織です。」


       彼女はにこやかに微笑むと、にその細い右手を差し伸べた


       「と申します。本日はお招きに預かり、恐悦至極に存じます。」


       がその手を取って口上を述べると、途端に沙織はクスクスと笑った


       「まあ…。そんなに堅苦しくならないで下さい。
        私、そう言うのは苦手ですのよ。」

       「あ…も、申し訳ありません。」

       「ほら、またそんなことを。私の事は『沙織』で結構ですわ。
        その代わり、私も貴女の事を、と呼ばせて頂くわ。それで宜しいかしら?」

       「はい、…喜んで。沙織。」


       毒気に中てられた後のように、は多少呆然としながらも状況を把握して対処した

       総帥、総帥と周りから吹き込まれて思考を固くしていたのは、他でもない自分の方では無かったのか

       「事実は小説よりも奇なり」と、は自分に殊更言い聞かせた







       二人が対面に腰掛け、少し和んだ雰囲気になったところでお茶が運ばれて来た
       薔薇の香りの漂う紅茶をそれぞれの前にそっと配し、淡い水色の巻き毛の男は静かに部屋を出て行った



       それから暫くの間、二人は様々な話に興じていた
       総帥と研究員とは言え、やはり女性の身
       他愛も無い話題や、の研究内容、大学での逸話など方向性を定める事無く会話は弾んでいた
       話題が互いの家庭のことに及び、初めて沙織はその言葉尻を濁らせた


       「私は…物心付いた時から祖父一人でした。
        その祖父も先年他界してしまいました。」

       「あ…すみません。私、とんだ失礼を…!」


       が慌てると、沙織は逆に微笑んだ


       「でも、今はこうして他の皆に囲まれて暮らしています。
        だから、決して寂しくなどないのですよ。
        …、貴女の方こそ御家族と離れて何年もの間暮らしているのですもの、きっと寂しい思いをなさっているでしょう。」


       13歳とは到底思えない沙織の言葉に、の胸の裏(うち)が熱を帯びた
       じんわりと、心の奥底から懐かしいような温かな気持ちが込み上げて来た

       …目の前に居るのは、一人の少女に過ぎない
       だのに、どうしてこうも彼女の言葉が胸に響くのか
       自分とは一回り程も歳の違うこの少女の内には、何と驚く程大きな存在が息づいているのか

       己の胸の熱さに、は黙りこくっていた
       総帥だとか、少女だとか、見掛けや立場では到底説明できないものの存在を、は無言のうちに只眩しい思いで感じ取っていた










       「…ア、総帥。そろそろ…。」


       沙織の傍らにずっと立ったままのアイオリアが、重々しく口を開いた


       「…ええ、そうですね。も此処に世間話をしにいらした訳ではありませんもの。」


       沙織が手にしていたティーカップを受け皿に戻すのを合図に、アイオリアは部屋を後にした





       パタン、と微かな音を立ててドアが閉じられたのを見届けて、沙織はの方を向き直った



       「…。実は今回、貴女にお願いがあってこうして来て頂いたのです。」



       沙織の言葉の端々から滲み出す厳かな空気に、も居住まいを正した



       「実は、貴女に、ある国へ行って仕事をしていただきたいのです。」

       「…ある国で仕事、とは…?」


       の至極まともな返答に、沙織は扉に顔を向けて短く促した


       「入りなさい。」






       再び開いたドアの向こうには、長身の男が一人立っていた

       先程出て行ったアイオリアとは対照的に、今度の男はとても長い髪を靡かせていた
       無言で入って来た男がこちらへ歩く度、その深い青色の髪が揺れる



       「カノン、こちらがです。」



       カノンと呼ばれた男は沙織の側まで来ると、片膝を着いた
       それは、この男が沙織に服従を誓っているという事を、どんな言葉よりも明らかに説明していた

       伏せられた男の顔はが驚くほど大層美しいが、そこには何の表情も浮かんでは居ない
       …いや、表情を敢えて消しているのであろう

       まるで細作のような男だわ

       は、彼の顔を見てそう感じた



       「、彼はカノンと申します。
        彼には、現地で貴女のガードをしてもらいます。」

       「…そんなに危険な所なのですか!?」


       沙織の言葉に、は彼女にしては珍しく食付くように問うた
       の腰は、半分浮いていた


       「…いえ。危険な場所ではないのです。
        ただ、あまりにも人の居住する所としては寂しい場所なのです。…、こちらに。」


       沙織に促されて、は部屋の隅に設えられた大きなデスクの前に歩み寄った
       木製のデスクの上には、大きな世界地図が広げられている
       沙織は差してあった羽根ペンを手元に取ると、その羽先で一点を指した






       東シベリア―――







       「シベリア東部の更に奥まった所に、ブルーグラードと言う小さな自治領が有るのです。
        …ご存じかしら、。」

       「いいえ。」


       は、頭を振った

       旧ソ連崩壊後、幾多の自治領が独立を果たしていることは無論知っていたが、そのような名の自治領の存在を耳にした事は無い

       の心を読んだのか、沙織が小さく頷いた



       「ブルーグラードは、その人口も数万人居るかどうかと言われるほどの寡民の地。
        その存在は、ロシア国内でも殆ど知られていないのが実状です。」



       成る程、そのような自治領であれば、日本まで存在が伝わって来ずとも何ら不思議は無い

       今度は、が沙織の説明に頷いた



       「その…ブルーグラードと言う自治領の事はわかりました。
        私はそこで一体何をするのでしょうか?」

       「…。貴女は『オゾンホール』を御存知でしょう?」


       沙織は、の瞳を覗き込んだ


       「ええ、勿論。極地の海洋生物の生態系に取っても、その影響は重大ですから。」

       「実は、そのブルーグラードの周辺が、そのオゾンホールの影響をここ数年直接受けているようなのです。
        こちらを見て下さい。」


       沙織は、地図の上に数枚の写真を広げた
       そのどれもが、腕や足など人間の身体の一部を写し出していた
       彼らの皮膚は、あるものは真っ赤に腫れ上がり、またあるものは斑に変色していた
       流石のも、目を背けたくなるに充分の代物だった
 

       「彼らは、強い紫外線に曝され苦しんでいます。
        …けれど、ブルーグラードは先にも申しましたように寡民の地。
        国力と呼べるほどの経済力は殆ど無きに等しいのです。
        しかし、彼らのこの現状も、元を糾せばその元凶は私達にあります。…悲しいことです。」

       「…はい。」


       伏せられた沙織の表情は、酷く悲しく厳しいものだった
       も、まるで己の事のようにその惨状を胸に受け止めた

       …いや、我々に原因がある以上、それは決して他人事では無いのだ

       の額に皺が寄った
       固く握られたの拳に、沙織の柔らかな掌が重ねられた



       「…。貴女に彼らを、彼らの土地を守って欲しいのです。」

       「…私が、ですか?しかし、一体どうやって。」

       「一ヵ月後、とあるNGO(Non-Governmental Organization:非政府団体・組織)が現地での調査を開始します。
        主な活動はオゾンホールの観測、現地の人々の調査と治療です。
        、貴女にはそのNGOのメンバーの一人として加わって欲しいのです。
        …他のメンバー達に先がけて、貴女にはこのカノンと二人で一足先に現地に赴いて頂きます。」


       沙織が触れた手から、彼女の温かな思いがじんわりと伝わって来る




             「世の中の役に立つ人になりなさい」




       の脳裏に、父の言葉が再び木霊した


       「…わかりました。仰せに従います。…是非、行かせて下さい!」


       は顔を上げて、沙織の手を強く握り返した


       「ありがとう…。私は貴女を、信じます。…その真っ直ぐな瞳を。
        現地での任務の詳細や住居のことなどは、このカノンが私に替わって手配してくれます。
        貴女は何も心配しないで下さい。」


       は、カノンをちらりと見遣った
       彼は相変らず顔を伏せたままでその表情は窺い知れなかったが、今は彼を信じるより他に道は無い



       「よろしく。カノン…さん。」

       「…カノン、で良い。」


       の呼び掛けに対し、カノンはぼそり、と一言返しただけだった













       がアイオリアに案内されて屋敷を退出したのを窓から見届けて、沙織は石の如く片膝を着いたままのカノンを一瞥した



       「…カノン。の事、くれぐれもよろしく頼みます。
        もう退がりなさい。」

       「……はっ。」



       カノンは立ち上がり、沙織に一礼するとドアを開いた

       扉の向こうに一歩踏み出して再びドアを閉じようとした瞬間、沙織はカノンを呼び止めた











       「カノン。例の件については、決してに気取られる事の無い様に。良いですね?」

       「……御意。」









       一瞬の空白の後、カノンは短く返答すると静かに扉を閉じた










       窓の外に暗く長い影を落とす森を見詰めながら、沙織は一つ溜息を零した











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